今回は「夜と霧」を読んでの感想2回目となります。
前回、作者が「この世界にはふたつの種族の人間がいる」と語ったことについて考察しました。
そして今回は生きる意味について
強制収容所での過酷な環境で
(飢え、そして極寒の地での寒さを凌げる機能のない薄い服。汚物で湿った靴に無理やり押し込む”傷だらけ”の腫れて傷んだ足。この環境下では垂れ流した排泄の暖かさに喜びを感じたとあります‥想像するのも怖い‥)
感情は消滅する。
と書いてあります。
さらに、おおかたの収容者の心には、
収容所を生きしのぐことができるのか、
という問いが生まれるのだそう。
そして、生き凌げられないのならこの苦しみの全てに意味はない。
と考え、自暴自棄になってしまうと‥
作者が経験したこんなエピソードがある。
収容所の中の友が、3月30日に解放され、苦しみから自由になるという神聖な夢を見たと打ち明けた。
ところが、解放の知らせなどは、期日が迫っても全く届かず、希望は薄れていく一方だった。
その友人は3月30日に発疹チフスでせん妄状態になり、3月31日に亡くなったと。
勇気と希望を一瞬にして失うことはこれほどまでに致命的で、結局夢のお告げ通りになった。
夜と霧より
なかでも、驚愕のエピソード。
以下の事実はいつまでも私の心に鉛のように残り、考えさせられた。
1944年のクリスマスと、1945年の新年の間の週に、かつてないほど大量の死者を出したという。
これは、さまざまな起因する状況からも説明がつかない事態であり、この大量死の原因は
多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望に縋っており、その希望を失ったことによる死であったという。
夜と霧より
未来への希望が、たとえ根拠などない儚い希望であっても、こんなにも生死を左右するほどのエネルギーを持つなんて‥涙
「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」
ある者は、収容所に入って間もない頃、天と契約を結んだ。
つまり、自分が死ぬなら代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死を免れさせてほしい、と願い、苦しむことも死ぬことも意味のない者ではなく、「犠牲」として深い意味に満たせれていた。
彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。
夜と霧より
生きることは
未来に『彼らを待っている何かがある』と思うこと
それが「仕事」であれ、「愛する人」であれ、自分がかけがえのない存在だと意識し、自覚した人間は「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだという。
そして、著者も愛する妻との再会を夢見て、解放の時を迎える。
解放とは、歓喜に湧いている幸せな様子を誰もが思い浮かべると思う。
私もそう思っていた。
でも、収容者にとっても、解放は想像とは違っていたのだ。思ったよりうれしくないし、一歩一歩、普通の暮らしに戻りはじめる‥。
それは、私たちがある種
「成功」を夢見る感覚と似ているのではないかと感じた。
「なんかちがう」「ちょっと違う」は違うステージに進むと必ずある。
なぜ成功するのか、なぜ生きるのか、そこに愛する人や仕事を見出したとしても、それは手段であり、依存しすぎてはいけないのだと思う。
最後に、これにつきる笑
悦る人生を送りましょう‼︎
これは尊敬するコーチ仲間が言っていたこと。
ありがたいことに、先人たちがネガティブな歴史を提示してくれた。
どちらもあるこの世界で、知っているからこそ選べる事がある。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
というけれど、
私は経験して学んでいく愚者スタイルではあるが笑
他者の経験を自分の経験とリンクさせて考えることができる『本』は自分の思いを強固にしてくれる。
悦る人生‼︎
【悦】を選んでいきたい‼︎
と、心から感じ、本を閉じました。
本の世界にまだいる感覚‥
ゆらゆら心地がいい。
久しぶりの感覚でした。
本を読んだ後にこういう感覚になる人います?もしいたら語り合いたい笑
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